鈍すぎる想像

カワムラが雑念を綴る。仙台でthe wordというバンドで活動していたり、無差別ラジオというpodcastをやっております。

みにしみた

IOというラッパー?のアルバムを聴きながら書きます。今日はドラムの音源にギターを重ねて歌うという練習をひたすら繰り返した。あとはプログラミングのお勉強。今日はReactとFirebaseでブログを作ってみるというやつをやった。あとは3回散歩した。休日としては85点ぐらいをあげたい良い日でした。心地よい疲労感。

 

なんとなく言いたいことはある気がするけど、誰に言えばいいかわからないし、いざ話すとその言いたいことを話題にあげることができない。恐らく忘れている。もしくは言葉にできていないだけか。それならば言語化する前に自分の中から消えていく思考は果てしない数存在していそうだ。せっかくの思考を出来るなら人と共有できたほうが良いと思うのはなぜか。それがヒトの本能なのか。

しかし、もしその言葉で相手を傷つけてしまったら、不機嫌にしてしまったらどうするとか考えているのかもしれない。いや、臆病なだけかもしれない。自分が可愛いだけか。

 

今度バンドで音源を発表したら、もしかしたら傷つくようなこともあるかもしれない。嬉しさやわくわくが勝つと思うけど。

やはり万人にとって心地よいものなんてのはないのか。誰かにとっての幸せは誰かにとっての不幸なのか。いや、言葉にすると極端になってしまうのでよくない。きっと様々なことはグラデーションというか曖昧さの上に成り立っているのかもしれない。曖昧さゆえになんとなく薄暗いような濁ったドロドロな感覚になってしまうのかも。

 

この駄文もなにかになっていくのだろうか。もしくは誰にも見られることない思考とも呼べないゴミクズのようなデータにすぎないのか。

反応がなくても、自分以外に誰かが読んでくれれば書くのか。読む人がゼロでも、僕がこのブログを書くということを必要としていれば、それは必要なこととなるのか。

 

なにもわからなかった日曜日だけど、自分が必要としているものはなんとなくわかったような錯覚には陥った。

思考から引き戻してくれるラップ。