鈍すぎる想像

カワムラが雑念を綴る。仙台でthe wordというバンドで活動していたり、無差別ラジオというpodcastをやっております。

表現できない表現とやら

the wordというバンドを仙台でしております、私です。

日中はプログラミング。レスポンシブ対応するのに結構時間がかかってしまうことに気づく。結局まだ実用的なところまでは持っていけなかったけど、動作するものは作れた。あとは就職活動と並行して進めていく。

 

帰宅後は、明日のスタジオが楽しみで、いまある全曲練習した。なかなかに疲れる。ボーカルとギターをやっているのだけど、今までで一番自主練習がんばっている。ほめたい。仕事を決めるまでは、あまり熱中しすぎないようにする、大人のレスポンシブ対応だ。明日のスタジオが楽しみな理由は2つぐらいある。一つは2ヶ月ぶりだということ。2つ目は、新しいエフェクターを買ったから。よく一人で個人練習に行かなかったなと思うぐらい試したくてうずうずしている。でも明日のバンド練習の前に1時間だけ個人練習するのはメンバーにも言っていない話。音作りしなければ。

 

一昨日ぐらいに、朝ドラの話をしていて、ひょんなことから表現とは?みたいな話になって、なったはいいもののテーマが壮大すぎて答えらしきものはでませんでした。なので、ここは小さく刻んで考えようかと思う。自分にとって表現とは?なら自分の中に答えらしきものがありそう。

結論から言うと、私の中での表現とは「感情を伝えようとする動き、たたずまい」だと思いました。動きだけで終わらせず、たたずまいまで含めたのは、じっとただ在るということも場合によっては表現だと思うのです。ああ、でもこれを書ききるのは難しいかもしれない。存在することも表現というか、でもそこに足を踏み入れてしまうと、かなりの沼な気がします。まだまだ小さくできていなかったですね。

感情を伝える気のない動き、例えば食事の話をしてみると、ただ咀嚼しているのは、まさに感情を伝える気のない動きだと思うのです。逆に、美味しさのあまりよろこびを伝えようと、笑ったり、「おいしい」と言葉にすることは表現だと言えると私の中では思うのです。私にとっては、音楽を通しての表現ももちろんあるのでしょうが、日常生活における表現と分けて考えるべきなのではないかと今書いていて気づきました。日常生活における表現は、コミュニケーションに近くて、音楽などの創作活動は、コミュニケーションからは少し距離を置いているものかなと感じます。いよいよ訳がわからなくなってきましたが、書けるだけ書いてみます・

まず日常生活における表現、これは最初に掲げた「感情を伝えようとする動き、たたずまい」という定義に含まれはするものの、伝えようとする感情の容器みたいなものがやや小さめである気がします。例えば、ただ怒るのと、激怒して一方的に威圧するのとでは違うように。前者は表現であり、後者はただの暴力であり、感情の容器から溢れてしまったものは、表現ではなくなるというイメージです。感情の容器の大きさが限られているから、日常生活における表現はコミュニケーションとして成立しているのでしょう。

逆に創作活動での表現、この場合は感情の容器が大きくて、過剰なものでさえ良しとされる場合があります。例えば、音楽で怒りを表したいと思って、激しい楽器の音やトゲのある言葉を使ったとしても、日常生活では許容されなかったものでさえも受け入れられたりします。もちろん、この場合においても感情の容器の容量に限りがあるので、拒絶されるような時もあると思います。日常で言えないようなことや言葉でうまく表現できない感情を容量がより大きい創作活動での表現に頼るのかもしれません。

コミュニケーションと少し離れていると言ったのは、相手に届けるまでに創作する段階を経る、つまり孤独に創作物と対峙する時間が必要だと言うことです。作ったものを即座に披露する場合以外では、この独りになる時間が必要なのです。時間的にずれはあるが、その時間を経由する、そのおかげで得体の知れない感情でさえも誰かに届きうる表現になるのかもしれません。前にも言ったことかもしれないのですが、私にとって音楽はまさにそれで、自分の中の行き場もないような感情を、誰がどう受け取ってくれるか分からない、そんな状況が楽しくもあり、ある種の救いのような気がします。大袈裟かもしれませんが。誰かがいつか受け取って何かに変換してくれるような音楽を作りたいです。