鈍すぎる想像

カワムラが雑念を綴る。仙台でthe wordというバンドで活動していたり、無差別ラジオというpodcastをやっております。

ただしいとかただしくないとか

何事も継続が重要だと、耳にタコができるぐらい聞かされてきたけど、ようやくそのことについて30%ぐらい納得してきた私です。わかり始めたマイレボリューション。今回は少し暗い表現があるので、苦手な人はでんぐり返ししてまた明日。

 

最近やけにTwitterやブログを書いてますが、ここ2、3年ぐらいは控えていました。コロナがあったり、戦争があったり、他にも悲しいことが世間的にも個人的にもたくさんあって。そんな雰囲気にやられて、何も言えなくなった。というのが、自分の言葉を公開しなくなった理由です。

何か少しでも間違ったことを言えば、誰かを傷つけてしまうかもしれないし、自分が攻撃されるかもしれないというような2つの可能性を必要以上に恐れていました。自分以外の人も繊細になっているのだと勝手に思っていました。

ニュースもあまり見ないようにしていました。そうでもしないと私のメンタルがもたないと思いました。なにかと殺気立っている雰囲気に怯えていました。

音楽に関しても大好きだったライブハウスにもほとんど行けてませんし、バンドも思うようには活動できませんでした。

なので、何かを発信しようとはあまり思えなかったのです。

 

ではなぜ最近こうしてまた書いたり無差別ラジオで話したりしているかというと、時間の経過がそうさせてくれたのと発信できる場所が残っていたからです。

 

時間の経過というものは馬鹿にできない気がしていて。何かがゆるやかに変わっていくのにはある程度の時間が必要なのです。状況を理解するのにも、自分の感情を整理するのにも。私の場合、そのタイミングが最近だったという話です。

そして、このブログだったり無差別ラジオだったり、Twitterだったり、消えずに残っていたということもあります。例えば無差別ラジオでいうと、ありがたいことに、待ってたよと声をかけてくれる方や、メールを送ってくれる方もいました。嬉しいことです。ありがとうございます。

 

あとは、自分ひとりの影響力を考えてみても自分の言葉の重さなんぞたかがしれている気もしたし。それでもその重さは決してゼロではないことも感じました。

批判にすらなっていないような、明らかに人を攻撃するような言葉もあるし、優しく人を勇気づける言葉だってある。

匿名だからといって過激になる人を僕は信じれなくて。名前を出してればいいという問題でもないのだけど。

こうやって自分の中でも許せないものや理解できていないものも確かにあるので、ある程度矛盾した考えを持つ自分も受け入れる姿勢が大事なのだと思い始めている。

話がぐらぐらで申し訳ない。ただ今は深刻さにかまけて、だんまり決め込むのも違うなというモードなのです。

 

自分の言葉をネットの海に流すことで、何が起きるかは流し続けないことには分からない。正しさを気にしすぎて怯んでしまって動けないなんてのも嫌なんです。大きく流れを変えることは難しいかもしれないけど、海の中のほんの一部にはなることができる。言葉を発し続ければ。ただしいとかただしくないとか、そんなところとはまた違う場所からも、たとえば、上空からも眺めることができるような、そんな器用さが欲しい。

ひとまずはブログでもTwitterでもラジオでもなんでもいいから続けよう。まだ続いている。

 

皆さんもお身体にはお気をつけて。それではまた。