夏草の揺れる丘を思い出しながら、自戒
見た目も違う、住む場所も違う、性別も違う、考え方も違う、仕事も違う、趣味も違う、学歴も違う、言語も違う、宗教も違う、夢も違う
そんな人のなにかを守りたいと思えたなら、それは平和な気がする。
自分のポジションからはるか遠くに位置する人を想えることだけでも十分いいのかもしれない。それは優しさな気がする。
こんなにものがあふれて、餓死なんてしないような環境で、デジタルデバイスに囲まれて、ネットワークに繋がれ、どんな知識欲も満たせるような、そんな生活の中で学ぶことだけは決して投げ出してはいけないはず。勉強というものは贅沢な気がする。
だからこそ、そんな贅沢を享受できる人は存分に貪るべきだ。
その点では、誰にも遠慮するな
そんな飽和された状況で知ろうともせず、自分の好きな範囲だけに執着して、政治にも無関心で、選挙なにそれ面倒くさいとか言って、あきらめの姿勢で、テレビを見ながら愚痴をこぼし、SNSでは誰かを揶揄する。
それは阿呆だと思う。
誰かと自分を比べたときにはじめてわかることもあるので、比べることも決して悪ではない。まず違いを知ることも大切だと思う。そこから、相手が何を大切に暮らしているがわかることもある。
だから人を阿呆呼ばわりした僕は馬鹿な気がする。
どうあるべきかなんて問うことよりも、何かを試すことのほうがよっぽど尊く思える。そうやってハズレくじを引きながら模索していくのが私の人生な気もしてきたな
「せめて大事な人が幸せであるように」
そんなことを歌ったバンドがいたな。
だれかの幸せを願えることが幸せなのかもしれない。僕は幸せだ。