鈍すぎる想像

カワムラが雑念を綴る。仙台でthe wordというバンドで活動していたり、無差別ラジオというpodcastをやっております。

たどりつけない

友人がTwitterでつぶやいていたThe Bethsが気に入ったので聴きながら書いている。

 

youtu.be

 

今日は、アジカンの新曲のMVもあがってた。思わず笑ってしまった。三日後にはライブが観れると思うと嬉しくなってくるね。

 

それぞれの人の中の敬意や悲しみや怒りという数値化できない感情で何かを量ることに果たして意味があるのだろうか。自分の中でうずまく感情を表に出すよりも少し立ち止まってほんのすこし、ほんの少しだけ、自分とは違う他人のことを想うということができれば、誰かを攻撃するという結果には至らないのではないか。自分の思想や感情の正当性をただ主張して他人を蹴落とそうとしているだけに見えてしまう。地獄だ。

たとえば、Twitterのトレンドとかをのぞいてしまうともう地獄。ここに表示されるつぶやきは本当に実在する人から放たれてるのか。悪意のかたまりにしか思えない時が多々ある。どうしてこうなってしまったんだろうか。

一つの事象に対しての反応は人によって違うのはわかる。攻撃する前にきづけないのだろうか。自分の考えを分らせようとする心理はなんとなく幼く感じてしまう。別に分かり合うことが大切、とか言いたいわけではない。

 

ああ。でもこんなブログを書く時点で、僕も誰かを想うことができていないのか。それじゃがんじがらめだからみんな行動に移すのか。でも僕の場合はやはり人を蹴落とそうとする態度ではないことは言い切れる。僕は意見があるなら誰かと積み重ねたい。他に良い意見があれば積み重ねてきた石の上に重ねてほしいと想う。これをいつか悪意を持った誰かが崩そうとするのか。人は悪意に満ちているのか。少なくとも僕が生きてきた中で、そんな人はいない気がする。好き嫌いとかはあるが、それとは関係ない話なので。悪意に満ちているのではなく、悪意を隠しているだけなのか。ゆえに匿名でそれを解き放つのか。たどりつけない。悪意を積み重ねているだけなのか。僕が悪意だと思っっているそれをただの一意見として積み重ねているだけなのか。そうかもしれない。僕が思う悪が必ずしも悪ではないかもしれないし、逆もまた然り。

 

しかし、そう考えると現在置かれている状況はかなり恵まれているのかもしれない。悪意を持った人は周囲にはおらず、意見を積み重ねていける人たちが周りにいる。これは幸運なんだな。報いるために前向きにならねば。僕が思う悪意に引っ張られるなんてばかばかしい。

 

悪意って他人を自分の思うようにコントロールしようとすることな気がしてきた。問題はターゲットが他人だということ。これが事柄なら問題ない気がする。いや、どうだろう。わからないし、疲れている。睡眠は大事。