鈍すぎる想像

カワムラが雑念を綴る。仙台でthe wordというバンドで活動していたり、無差別ラジオというpodcastをやっております。

疲弊ニード休息

三月のかわむらです。

疲弊している人はしばらくの間Twitterとかこういうブログを読まないことをお勧めします。

休んでください。元気が出たらまた読みに来てください。

 

 

今朝目覚めるやいなや、鼻から血が出てました。いわゆる鼻血というやつですね。少し勢いが良かったので、死ぬのかと思いました。

なかなかの滑り出しの3月ですが、2月にがんばったせいかちょっと無気力気味です。

なので大人しく読書でもしてやり過ごそうかと思っています。あ、でも昨日久しばりにスタジオ入って楽しかったです。白日歌わされましたが、もうちょっとできます。そして全体的にももっと改善できることが見つかったので、楽しみです。音の棲み分けとかね。

知らない人に説明すると私はthe wordというバンドをやっております。そのうちなんかしら公開すると思うので、その時はよろしくお願いします。ちょっと先。

 

あ、あと今日散歩がてらマスクがいよいよ無くなってきたので、探しにいきました。

いやー、見事にないですね。トイレットペーパーも無かった。

この状況はなんかまあかなしいとしか言いようがないし、2011年の震災の時も思い出されてしまう。デマを拡散する人やそれに踊らされて必要以上に買い求めてしまった人、それを必要以上に叩く人たち。各々に悪意がなかったり正義があったりするかもしれない。ただ決して褒められることではない。そんなこといえば悪意がなかったり正義があれば何してもいいって話になってきてしまう。

センシティブな話題に関する情報源を確証もなしに拡散してしまう人。人より先に自分の保身のために必需品を買い占めてしまう人。過激な言葉をもってそのことを叩く人。こんな人がいろんな場所にいるというのがこの国の現状。

それは自分自身の反省にもつながる。でも失望しない程度にしておく。

 

震災後の教訓も何も活かされてない。もしかしたらごくわずかな人たちのデマや買い占めが始まりなのかもしれない。しかし、それが拡散されてしまう状況。

本当に冷静にならなければ、大切な人を守れない。

 

 

ナンバーガールの無観客ライブ、youtube配信を見てました。ほとんどはライブを楽しんでるコメントですが、たまにコロナに感謝みたいなクソつまらない冗談なのかなんなのか知らんけど、結局どこも2ちゃんねるみたいな感じなんかと思って少しかなしくなりました。

 

民度低いとかって言葉、出来る限り使いたくはないけれど、本当にそうなのかもなと思った。

自分が高尚な人物だなんて決して思ってないけれど、この状況は明らかにおかしいし、恐ろしい。たぶんそろそろみんなこの話題に疲弊していって、考える力も発言する力も弱まってしまいそうな気がする。

ぼくもかなり疲弊している。

ただぼくは自分を冷静にするために、書き綴っている。

本当に必要としている人に必要なものが、行き渡るように祈っています。

たしかにな、本当に健康な人たちにマスクなんて必要なんかな。トイレットペーパーの備蓄ある家族が必要以上にそれを買う必要ある?

困ってないのに困ったふりしてませんか?それは狡い。とぼくは思う。

繰り返されるウイルスの話

なんかもやもやしますな、かわむらです。

ややしんどい話を書くつもりなので、元気がない人は読まないほうがいいかもしれません。ぐっない。

 

 

 

 

 

閉鎖的というか、なんか悲しくやりきれない感覚。この空気感はどこから来るんだって思うと大半がSNSやネットの情報だったり、あんまりTVなどだったりする気がしていて。直接会って話したり電話したりして聞こえてくる生の声というよりは、なんか得体の知れないものからな気がする。

 

新型コロナウイルスについてというか、それに対する政府だったりの対応が話題になってますが、なんかね。政府を叩くのもいいけど、それはれっきとした批判に昇華したほうがいいと思うし、Twitterでただ文句言っても本当に消耗するだけなのでやめたほうがいいと思います。

やっぱり今回の件に関してはTwitterとか言葉数の少なく、流動性が高かったり、情報源が不明瞭なものは向いてない気がします。ただただ混乱するというか。

 

じゃあどうしたらいいか。

こういう状況だけど、どうしたら親しい人と楽しく暮らせるかをこういう機会に考えたほうがいいと思う。こういうときにむやみやたらに遠い知らない人と結束しようと動く人がいるけど、それよりは近く親しい人との結束を強めるべきタイミングであると僕は思う。

あとSNSとかの情報、考え方を参考にしないのがぼくなりの過ごし方です。人は自分にとって都合の良い人しかフォローしない傾向にあると思うので、そこに集まる情報は偏ってることが多々ある気がしていて。

なので、体力があるなら自らインターネットで情報をとりにいってもいいけど、それで混乱するぐらいなら、最低限のニュースだけチェックするぐらいでもいいかなと思っている。

 

いやでも

それにしてもメディアは不安を煽りすぎな気がします。たしかに感染者も出て、死者も出ている新型のウイルスです。しかし、連日連日その脅威を報道するほど恐ろしいものなのでしょうか。イベントを中止、延期にしたり、全国の小中高が休校すべき事態なのでしょうか。果たして政府の方針は正しいでしょうか。

その先にある利害関係がどんなものかだったり、本当に悲しむ人が誰かだったり、想像は巡らせたい。

きっと事態が収束した時に冷静に振り返ることができるのでしょう。

あとただなんとなくですが、コロナウイルスの報道が連日行われる前になされていた議論や批判は思い出す必要があると思います。もしかしたら、この状況に乗じて隠されようとしていることもある可能性だって否定できません。

 

ほとんどの情報がデマじゃないにしろ、何を根拠にこれを言ってるんだというぐらい情報が雑多すぎるので、やはりある程度フィルターをかける工夫が必要かもしれません。

この状態で混乱しないほうが難しいと思うけど、本当に大切なものは何かを改めて考える良い機会だと思います。しつこいようですが。

目に見えないものを恐れるより、目に見える身近な人を信じたいです。

冷静沈着でなくてもいいです。しかし、どうか悪意に踊らされないように。踊らされて取るその行動が、大切な人たちを苦しめてしまわないように。

決して絶望的な状況ではないし、きっと収束するはずだと信じているので、その先の、続いていく暮らしを希望として乗り切りましょう。

 

睡眠もかなり大事なので、ゆっくり休んでください。おやすみなさい。

有り難さとキャパシティ

どうもなんの説明もなしにラジオの台本(?)をブログにアップしたことを少し悔いている私かわむらです。

 

昨日、天竺鼠の面白さに気付いてしまいました。お笑いって尊いなーと思います。もし面白いこと思いついたとしてもそれをコントなり漫才で表現できるのはすごい尊敬するし、とても有難い。ぺこぱも好きです。

 

そういうことを考えると誰かにとって有り難いこと、有ることが難しいこと、を自分はできてるのかと思ってしまいます。

それが確認できるのは、ダイレクトにありがとうと感謝されたときやお金や有用な物を貰えた時だったりするのかなと。

なので働いてお金がもらえてることも誰かにとっては有り難いことということになりますし、金銭などが発生したくてもボランティアで感謝されることだって有り難いことなので、それを積み重ねたりしたいなと思います。

でもぼくはぼくにとって大事な人が健康に過ごしてくれていること自体ありがたいなと思います。あと普通にご飯が食べれてることとか、ぐっすり眠れてることかも。

 

この前ネットで読んだ記事に、人は生産性に価値を置きずぎていると書かれてました。だから役に立つか立たないかで物事を判断しがちだと。

なので高いパフォーマンスをもって仕事ができる人が評価されるのは、今の社会では当たり前のことだと認識されているけど、本当に生産性に価値はあるのかということを見直したいと私は思います。

数字を大きくすることに囚われすぎている人が多い気がします。学校の成績だったり給料だったりGDPだったり。

数字なんて所詮万人にわかりやすいフィクションみたいなもんだとぼくは思うので、こういうことはちゃんと整理しておきたい。

 

そもそも仕事で高いパフォーマンスを発揮する意味とはなんだとか、仕事は人生の目的だっけとか、お金を余剰に稼ぐことって本当に必要だっけかとか。そもそもの自分の原点みたいなものが大切だったのではとか。

自分の大切なものや価値観を見失うと急に心が狭くなる気がします。

例えば仕事で高いパフォーマンスを発揮するのには、それには大きなストレスが伴うと思います。ストレス耐性など人によるものがあると思いますが、ストレスで体調がおかしくなりつつも自分のキャパシティに見合わない仕事で成果を求めるのは、果たして自分の人生に必要なのかと自問すべきだと思う。

もしキャパシティをオーバーすれば、その余剰は自分の健康を損なったり、他人を攻撃してしまったり、場合によっては暴力や犯罪に繋がる可能性も否定できないはずです。

きっと自分の器から水がこぼれないような生活を心がけることができていれば、世の中かなしいことが少し減ると思ってます。

自分の器を測ることより目の前の数字を追うことを優先してしまうと大半の人がなんかしらの不調を抱えてしまう気がします。自分の器、キャパシティを把握することがきっと必要なことなんだと思います。

キャパシティというとふわふわしてますが、どうすれば測れるのか。きっとそのひとつには内省があると思います。自分の軸だったり、原体験だったりを見直すことで、どの方向で自分はがんばれるかということがわかるはずです。その方向さえある程度ぶれなければ、自分の幅も体感としてわかってくるはずです。時にその矢印がぶれても多少の方向修正はむしろ必要なはずですし。

 

あとは自分にとって有り難いものがなにかも把握する必要があると思います。

例えば今このスマホで文章を書いていますが、このスマホが作られるには沢山の人たちの仕事が関わっていて、その意味合いを考えるととても有り難いことだと思います。そうやってただ在るものがなぜここに在るのかということの意味を考え、想像し、感謝できるのが重要なスキルだと私は考えます。物でなくとも人、家族や友人や恋人や同僚など、人の生産性よりもその人たちが居ることに意味を見出し、ありがとうと感謝できる、そういう余裕もキャパシティのひとつかと思います。

 

この変化の激しい時代に、有用性よりも意味合いを考えることのできるスキルは求められてくるはずです。決して仕事ができて、年収が高い人を批判したいわけでなく、ぼくたちってそれでいいんだっけって一回立ち止まって一緒に考えたいという話です。

AIがほとんどの仕事奪うみたいな話もありますが、AIなど技術との進歩にこそ、協働する未来があると思っています。つまり人の役に立ってくれる有用性のある技術に任せることができる部分は全部任せて、もっと意味合いを考えるという部分な我々は自分たちの時間を費やすべきなのではないかと思います。

 

ぼくのざっくりしたフィーリングでは、ロボットが作った牛丼は食えるけど、ロボットが作った音楽にお金は払わない気がする、みたいなもんです。

 

珍しく長くなりましたが、最近いろんな本や記事を読んで思ったことのまとめになったので、割と書き終わって満足感があります。気づ気があればまた書いてみたい話です。

 

読んでくださった、皆さま本当に有り難うございます。読んでいただけることで、書くことができています。ありがとう。

無差別ラジオWかわむらひとり回台本

 

いつもの挨拶

このラジオは鈴木とかわむらが

無差別な世界を作るため

この世の不条理を無差別に切ったり話をややこしくしたりするラジオです!

 

ひとり回の説明

 

テーマ自己分析

転職を決めた

たまたま読んでた本

メモの魔力の説明

事実の抽象化と転用

自己分析の話

幼少期の夢とか

今までの職歴とかをちゃんと振り返る

軸の発見

居場所の話

 

これ台本か?

 

言語化するというか文字起こしすることの大切さ

メンタルコントロールにもなる

 

以下感想

ひとりでラジオやってみましたが、しんどいねこりゃ。

ちょいす

ぼくもそろそろセルみたいに完全体になりたいよ、かわむらです。

 

今日は元同僚の人と話していたんだけど、判断の軸って大事ですよねって話。

とっさに判断に迷った時に何を軸にジャッジするか、ぼくは最近だとどちらがワクワクするかで決めてることが多いかなと感じる。

 

直感でも良い気もするけどどうだろう。軸がないと間違いにも気づかない感があるな。

自分で選んだ感は大切にしたい。それがないとあんまり生きがいを感じれなくなったしまいそう。ぼくはブログ書いてたほうワクワクするし、電車の中でできることの選択肢としてたまに選んでる。

 

なんとなく選ぶことから逃げてきた人生だった気がする。責任逃れというか。だから成長もしなかったのかなと思う。今はすごく考えることができている実感がある。

 

きっと選択の自由があふれてるのだろう。それは豊かなことであるかもしれないけど、選択肢の多さに困ってしまう人もいて、結局悩んでるうちに歳だけ取ってしまったり。

 

そうならないうちに掴みとりたいね。

メモの魔力の魔力

どうも繰り返される自問自答(自己分析)を本当に実践している最中のかわむらです。

そして、アクセス数で一喜一憂しないとどこかのブログに書いたけど、最近調子良くてちょっと一喜してます。

 

さっきフリクションの替え芯を買いにセイユーに行ったのですが、そういえば今日初めて外に出ました。今日は1日中ずっと机に向かってました。いわゆる自己分析をするために、メモの魔力という本を参考にしてみたんですが、かなり良い、これはなんか掴めそうや!ってなりました。前田さん見直した。(勝手なイメージで、印象よくなかった)

 

まあ詳しくは本読んで欲しいんですが、事実を抽象化してあと転用(具体的な行動まで落とせると良い)するっていう感じです。

あ、僕の人生に足りなかったの、このサイクルだわってなりました。

 

先日のブログに書いた言葉にする勇気とかも完全に影響を受けてますね。

 

 

自己啓発本の類って読み終わったら少しの間はやる気が出てうおー!やったるぞー!ってなって効果あるっぽく感じるんですが、本当に一時的というか、結果何も残らないことが多いんですが、今回読んだメモの魔力はほんとすごい。自分のフィーリングに合ってるのも相まってるからかもしれないけど、実践的。というか実践したらこっちのもん感がすごい。

 

やはり没頭して読める本って貴重で、前は面白い本はバーって一気に読んでたけど、もうちょいゆっくり読んだ方が自分として納得できるかな。なんというか咀嚼と同じような感覚。

 

ハマる力って大事だよなと。みんながハマってるものを知りたいです。いつか聞かせてください。

 

グッナイ!(pretender風)

 

言葉にする勇気

今日はタイトルを決めてから書き始めたアンニュイかわむらです。

アンニュイの言葉の意味あんまわからずに使ってました。そう、言葉にするには勇気が必要です。こんな風にブログを雑に書いてる私ですが、割とビクビクして書いてる仔羊のような30歳ですよ。

こんなこと書いて嫌われんかなって常に思ってます。Twitterとかは流れてくけど、ブログだと割と留まってしまう感覚なので、ブログは結構慎重に書いてます。ただ習慣にしたいので、バランスをうまく取ってはいるつもりです。

 

なんかね、日々いろいろ感じたり、考えたりして過ごしますが、言葉にして残さないとそれってほぼほぼなくなってしまうとぼくは思うんですよ。言葉にすることで想いがかたちとしてのこるというか。最悪このブログが消されたとしても、言語化したことによる成果というものは確かにあるし、誰かに読んでもらったりしてもらえていればなおさら価値はあると思っていて。

どちらかというと話をするよりはこうして書き綴るほうが得意というか好きなので、書いてます。

やっぱり黙ってたら何にもならないんですよね。ぼくはばかなことでも発信してる人の方が好きですね。やっぱり最初に見当違いのこというのって才能の類なのではと思う。本当にバカなのか、議論を活発化させるための道化なのか。どっちにしろ素晴らしいと思う。ぼくはTwitterやブログで道化になってるつもりはあるし、普段の生活でも割と変なこと言うように心がけている。本当にバカなことしか言えない時もあるけどね。

 

伝える力が欲しいです。誰にでも伝わるような簡単な言葉で、自分の考えを説明したい。感情を訴えたい。

こんな世の中になっているので、発信はいくらでもできる。無理にとは言わないけど、言葉にする勇気、振り絞ってみても悪くはない、悪くはないと思うよ。